top of page

Blog

文章を書くということ

  • 椿本 千詠
  • 3月25日
  • 読了時間: 3分

椿本千詠(つばもとちえ)です。





文章を書くということ





それは、多かれ少なかれ

本人の命を削っているようなところ

があるのではないだろうか。





鶴の恩返しで鶴が自分の羽を抜いて

織物に織りこむように

本人自身のエッセンスが織り込まれる。





命を削ると言うと

何だか犠牲を払っているような

イメージだけれど





自分の中から何か

外に出たがるものがあって

本人はそうせざるを得なくて書いている。





本人は無意識かもしれないけれど

とにかく自然な流れとして書いている。





産みの苦しみはあるにせよ

よろこんで書いている。





例えば書いた内容が書いた本人とは

全く関係ない話だったとしても

そこまで生きてきた体験や人となり、

考え方が間違いなく

行間に滲み出てしまう。





だから、文章が生きている。

その文章を読んだ人が感動する。





体験の中には本人が読んできた文章や

誰かからもらった言葉も含まれる。





でも、どうしたって

その人本人の解釈が入る。

だから文章にもそのフィルターがかかる。





そのフィルターはその本人しか

かけられない。

本人しか書けない文章となる。





逆に他人の文章をコピーしただけの文章は、

たとえ文章として完璧だとしても

読んでもうったえるものがない。





何も残らない。





そして、フィルターには相性がある。





結局同じことを言っているのだけれど

Aといわれた方がわかる人もいるし

Bといわれた方がわかる人もいる。





それが普通。





小説家でも好きな作家さんと

そうでもない作家さんといますものね。





自分の中にスッと入ってくる人の

文章を読んだらいい。





というかその人の文章を

読んでいられるということは

その時の自分に合っているはず。





私は作家でも何でもありませんが💦

ブログを書く時、

書かざるを得ないというか

書きたいことが降りてくる。





書き始めると、だんだんのってくる。





本当にありがたいことに

私のブログを読んで

「胸に突き刺さりました!!」

と言ってくださる人がいる。





それだけじゃなく

現実社会で役に立った事柄を

とても具体的に教えてくださる。





私の文章はただのきっかけで

実際にその行動をした

ご本人が素晴らしいのだけれど

それでも私としては最高に嬉しい。





だって、その人たちのために書いている。

その人たちには自分も含まれる。





自分の文章は当たり前だけど

自分だから合う。





だから自分の文章を後で読んで、

自分で癒される時があるぐらい笑





私のブログを読んでくださる方は

その時の私の状態と似た部分があり

そういうタイミング

ということなのだろう。





自分の人生をより良くするために

何でも自分のきっかけにしたらいい。





それをきっかけとして

自分や他人に遠慮することなく

行動したらいい。





文章を書く人も

読んでくださる方がいるから

書き続けることができる。





そこに上も下もない。

役割が違うだけ。





ということで今日も私は

ブログを綴っています♡















それとは別に文章の上手い下手はもうこれは

練習するしかないんじゃないだろうか


私も日々精進あるのみ。







5名募集いたします。


Comments


© 2021 Lei Lani / Chie Tsubamoto

  • Facebook
  • Instagram
  • LeiLani公式LINE
  • LeiLani-note
  • Twitter
bottom of page